想像を絶する修験の道を歩んだ
姫野公明師の霊験力が宿る

北信濃を代表する霊峰戸隠山の「修験道の拠点」

いにしえの昔、天の岩戸が飛来したといわれる聖なる山、戸隠。天照大神祀所縁の戸隠は古来より修験者の修行の山として山岳信仰の長い歴史を紡いできました。この地に、小さな庵が結ばれたのは1943年(昭和18年)、それが修験道別格寺戸隠山公明院です。神仏習合の象徴ともいえる修験道の拠点であり、本尊には天照大神をお祀りしています。

戸隠修験最後の尼僧 「姫野公明師」が開祖

公明院の開祖は、初代院主、姫野公明師(尼僧)です。公明師は明治31年(1898年)豊後(大分県由布院)にお生まれになりました。日本三代霊山のひとつ英彦山で修行を始め、17歳の時に修行僧になることを決意、京都の尼寺「得浄明院」に入門しました。公明師は明治天皇の叔母に当たる宮尼公より剃髪を受けています。将来を嘱望された尼僧だったのです。その後国内はもとより中国にも修行の場を求め、各地で厳しい練行を積み霊験力を高めていきます。そして最後の修験の場として選んだのが英彦山とも深い関係のある霊峰戸隠でした。昭和18年(1943年)戸隠越水に公明院を開かれました。

平和を追い求めた修験者 「姫野公明師の軌跡」

戸隠に至るまでの軌跡
〜明治天皇叔母宮尼公より剃髪を賜りし後、日本・中国で修行を積む〜
1898年(明治31年)現在の大分県由布院に生を受ける。幼少期から霊能力を備えていた公明師は、大分県と福岡県にまたがる日本三大霊山、英彦山を眺め、折りに触れ登り修行に励むようになる。

1915年(大正4年)公明師17歳、世の中に役立つ修行僧になることを決意、善光寺大本願の京都別院である尼寺「得浄明院」に入門。明治天皇の叔母に当たる宮尼公より剃髪を賜る。

明治天皇叔母宮尼公より剃髪を賜った頃の姫野公明

1922年〜(大正11年〜)廃寺寸前のお寺再興の命を受け、北海道へ渡る。苦難を乗り越えお寺再興の任務を果たすが、無理が祟り肺病を病み、やむなく故郷大分に戻る。
回復後、岡山県倉敷市の修験道の総本山「五流尊龍院」に入門。10年に及ぶ厳しい修行が始まる。
山地の聖地を礼拝して巡り歩く回峰修行(かいほうしゅぎょう)と呼ばれる想像を絶する苦行を積む。

日本修験道総本山「五流尊瀧院」で厳しい修行の日々を送る

1932年(昭和7年)、1936年(昭和11年)さらなる霊験力を磨くべく2度中国へ渡る。五台山、白雲山などで先師の足跡を慕い練行を積む。

明治天皇叔母宮尼公より剃髪を賜った頃の姫野公明日本修験道総本山「五流尊瀧院」で厳しい修行の日々を送る
戸隠入峰後の軌跡
〜世界平和を誰よりも願い、苦修・練行に励み人々のために尽くす〜
1941年(昭和16年)6月霊告を受け突如信州戸隠での修行を決意。弟子の公恵尼一人を連れて戸隠に入峰。
戸隠奥社近くに粗末な小屋を建て苦修練行を行い「陀羅尼」を習得。洞窟での籠もり修行をはじめ回峰修行、読経三昧、極寒・積雪の中護摩行を行うなど、人智を超えた修行の日々を送る。

1941年(昭和16年)12月〜遠い昔、学問行者が開創したと言われる戸隠三十三霊窟は当時はっきり残っているものは第一窟の奥社と第二十四窟の九頭龍社のみだった。公明師は「今復旧せずんば痕跡さえ止めざるに到らん」と復興を決意。心を動かされた村人・信者の助けを借りながら殆どが断崖にある窟を捜索。公明師自ら転落・怪我を負いながらも霊感により三十一の霊窟は全て見つけ出されそれぞれに石祠を奉納した。

姫野公明師が石祠を奉納した戸隠三十三霊窟

1943年(昭和18年)戸隠越水に寺院を構える(現 戸隠山公明院)。

1943年(昭和18年)5月三十三霊窟復旧中に転落して痛めた傷が酷寒中の荒行で再発してしまい、長野に止宿して治療していたところ「我は奥院の九頭龍神なり」との霊告を受ける。明治元年の神仏分離の難に遭い行方知れずだった九頭龍神を長野市内骨董店で見事探し当てた。損傷があり京都にて修復後一時公明院に安置されたが、「我もとの奥院に帰る」との霊告を受け、九頭竜大権現は八十余年の歳月を経て無事戸隠奥院への帰山を果たした。

戸隠奥院の九頭龍神

1950年(昭和25年)第二次世界大戦で非業の最期をとげた世界の戦没者を慰霊し、世界平和のための守護神となるよう宗教の隔てのない萬国之英霊宝筐印塔を建てる。当時はまだ米軍占領下で神社参拝も許されない時代。工事車両も通せない状況の中で公明師自ら大変な苦労をして完成させた。8月15日久邇宮殿下を総裁に開眼式を行う。

宝筐印塔建立開眼式の姫野公明師と現在の風景

1959年(昭和34年)戸隠山三十三霊窟復興中に両足に凍傷を負った公明師はその治療中、1942年(昭和17年)2月、飯綱山頂の地蔵菩薩を拝していたところ、御手にあった錫杖が自分の方に飛来するのを感得。それは足利二代将軍義詮が三代目義満のために飯綱山に献納したといわれる本地仏・地蔵菩薩であった。その17年後(昭和34年)再びこの本地仏のお姿を拝すことになるが、その時「汝を待つことひさし、先年、汝に錫杖を授けたり」との霊告を受ける。公明師はこの本地仏を拝受し「延命地蔵大菩薩」と命名、現在当院の五角堂に納まっている。

紫黄金に輝く延命地蔵大菩薩

1963年(昭和38年)昭和37年公明師は不幸が続くという長野市若穂のお宅で祈祷中霊告を受け戸隠に人塚があることを知る。師は戸隠の山野の中に人塚を見事発見、読経を行っていると「我らを天命稲荷として斎祀せよ」とのさらなる霊告を受ける。翌年の昭和38年、天命稲荷大明神として戸隠の霊地に奉斎した。

姫野公明師が奉斎した戸隠天命稲荷神社

1970年(昭和45年)3月2日東京目黒の本院にて入寂、72歳。諡号・長床大先達僧正公明法印大和尚位。戸隠公明院に納骨される。

姫野公明師が石祠を奉納した戸隠三十三霊窟戸隠奥院の九頭龍神宝筐印塔建立開眼式の姫野公明師と現在の風景紫黄金に輝く延命地蔵大菩薩姫野公明師が奉斎した戸隠天命稲荷神社

「霊は生きている」今なお強く宿る姫野公明師の霊験力

世界平和、人々の幸せを願い一生をかけて苦修・練行を積まれてきた姫野公明師の元には、当時多くの相談者や著名人の方々が訪れています。沖縄返還を果たされた時の首相、佐藤栄作ご夫妻、小坂・倉石両大臣をはじめとする政財官界の方々、また宮家の方々も定期的にご参拝にお越しになられていました。一方、村人や市井の人々の悩みやトラブルにも真剣に耳を傾け解決の道を導かれています。
「霊は生きている」 姫野公明師が常々唱えていた言葉です。修験者としての公明師の霊験力は今なお当院に強く宿っています。参拝者の中には「強い気」を感じられる方々も大変多くいらっしゃいます。
修験道は皆様の幸せを願い、僧侶が修行に励む宗派です。戸隠にお越しの際はぜひご参拝いただき、修験によって研ぎ澄まされたパワーをご体感ください。

秩父宮妃殿下、元の梨本宮妃もご臨席された宝筐印塔十五周年記念大祭
沖縄返還時の首相、佐藤栄作ご夫妻をはじめ政財界の方々と姫野公明師

険しくも清しい戸隠山の麓、四季折々の自然を公明院と共にお楽しみください。

公明院の四季
(Instagram)

厳冬の戸隠で練行を積む

アクセス

宗教法人修験道別格寺 戸隠山公明院

〒381-4101 長野県長野市戸隠3614
Tel.026-254-2036
受付時間:9:00 〜 17:00

当院施設内の見学・法要をご希望の方はお電話またはお問い合わせフォームより事前にご連絡くださいますようお願いいたします。

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